1.2023年4月22日ジオスゲニンに関する論文がMolecular Psychiatryに掲載
アルツハイマー病(認知症)の治療については、全世界において人類が直面する大変大きな問題でございます。しかしながら現時点では、根本治療は難しいとされ、治療としては対症療法でしか行われておりません。
2023年4月22日 富山大学和漢医薬学総合研究所東田千尋(とうだちひろ)教授の
ヤマイモの成分の一つであるジオスゲニン(※1)に関する研究論文が、
Molecular Psychiatry(モレキュラーサイカイアトリー)(英国の著名なNature誌のグループ出版会社)に掲載されました。
今回はもう少しわかりやすく、また別の言い方をすれば、「何が素晴らしいのか?」というご質問に対して、できる限り簡明に説明したいと思い筆を執りました。お目を通していただければ光栄です。
(※1) ジオスゲニン:生薬のサンヤク(ヤマノイモやナガイモの成分として知られる化合物。ジオスゲニン単体としては、自然界ではほとんど存在せず、配糖体のジオシンとして存在。従い、ヤマノイモなどを食べてもジオスゲニンはほとんど摂取できない。
論文名: Diosgenin restores memory function via SPARC-driven axonal growth from the hippocampus to the PFC in Alzheimer’s disease model mice. (ジオスゲニンはアルツハイマー病モデルマウスにおいて、SPARCが駆動する海馬から前頭前野への軸索投射によって記憶機能を回復させる)
著者: Ximeng Yang, Chihiro Tohda (楊 熙蒙、東田 千尋) 所属:富山大学 和漢医薬学総合研究所 神経機能学領域
掲載誌: Molecular Psychiatry 2023年4月22日オンライン公開
「Molecular Psychiatry」オンライン掲載ページ Diosgenin restores memory function via SPARC-driven axonal growth from the hippocampus to the PFC in Alzheimer’s disease model mice | Molecular Psychiatry (nature.com)
2. 現状におけるアルツハイマー病治療とその限界
東田先生の研究解説の前に、現状のアルツハイマー病治療とその限界について少しお伝えしておきます。
現在、認知症治療薬は、主に次の3つの仮説により作られています。
1)コリン仮説
アルツハイマー病治療薬開発当初、アルツハイマー病の原因が脳内のアセチルコリン不足にあると認識されました。しかし、その後の研究でアルツハイマー病では、アミロイドベータの蓄積により広範に神経細胞が変性し、コリン作動性神経の脱落はその結果の一部であることがわかりました。
2)グルタミン酸仮説
脳内におけるグルタミン酸(神経伝達物質)が過剰になることにより、記憶に係わる神経の不活性化を引き起こすことがわかりました。グルタミン酸の濃度をNMDA受容体拮抗剤により調整することで、進行を遅らせることができるという仮説です。しかし、脳内の神経変性は広範囲に進むため、グルタミン酸作動性神経細胞の軸索投射も減少します。この状態でNMDA受容体拮抗剤を投与しても作用が期待できません。
3)アミロイドベータ仮説
アミロイドベータの沈着が、脳の神経細胞の変性を促進することがわかりました。認知症治療薬として、アミロイドベータを除去削減することにより、アルツハイマー病認知症の進行を遅らせることができるという仮説です。現在主流で研究開発されています。
3仮説とも、アルツハイマー病の進行を抑制することは期待できます。しかし、一度変性してしまった神経細胞を元に戻すはたらきはありません。根本的治療の観点から捉えれば無力感があるといえます。
ご参考
現在認められている4つの薬
アルツハイマー病(AD)の治療は、アセチルコリンエステラーゼ阻害剤に代表される対処療法に限られており、病気の進行を抑制、治療する根本療法剤は開発されていません。(神経伝達物質のアセチルコリンがシナプスに放出されると直ちにアセチルコリンの活動を阻害する酵素アセチルコリンエステラーゼが、アセチルコリンを、コリンと酢酸に分解して、情報伝達を阻害します。阻害剤は、アセチルコリンエステラーゼの活性を阻害して結果的にアセチルコリンの濃度を高めます。
コリン仮説 | グルタミン酸仮説 | アミロイドβ仮説 | |||
コリンエステラーゼ阻害剤 | NMDA受容体拮抗剤 | 抗アミロイドβ抗体薬(申請中・一部承認済) | |||
治療薬 | 商品名 | 治療薬 | 商品名 | 治療薬 | 商品名 |
ドネペジル | アリセプト | メマンチン | メマリー | レカネマブ | レケンビ |
ガランタミン | レミニール | アデュカヌマブ | アデュヘルス | ||
リバスチグミン | ・リバスタッチパッチ
・イクセロンパッチ |
3.萎縮した神経細胞軸索を元の場所に伸ばす作用
今回の研究論文では、アルツハイマー病マウスにジオスゲニンを投与することにより、縮んだ軸索を元の場所まで伸ばすことを確認したと発表しました。そして、傷んだ軸索が元の場所に伸びた結果、記憶が改善することを確認したというのです。これは、海馬から前頭前野(※2)にかけての神経細胞の状態において明確でした。
これまでの仮説に傷んだ脳神経細胞を回復させるというものはありません。これまでの仮説とは一線を画す発表であり、にわかには信じられないと思われるのも無理ないと思います。
3-1.縮んだ軸索を再び伸ばすメカニズムの解明(分子機序の発見)
もう少し詳細に解説いたしましょう。今回の研究論文では、神経細胞の中のタンパク質の働きに注目しました。ジオスゲニンを投与することでそのタンパク質の働きを確認したところ、縮んだ神経細胞の軸索が、正しく伸びていくことを初めて解き明かしたのです。
アルツハイマー病モデルマウスの海馬の両側に、SPARC(※3)を発現させるベクター(運び屋)を注入しました。その結果、SPARCの過剰発現が確認され、次の2点が確認されています。
- 記憶試験による記憶改善
- 1で確認されたマウスの脳の神経細胞中の軸索の伸展
ただ、この確認だけではジオスゲニンの投与によるSPARCの過剰発現が、軸索の伸展をもたらし、その結果として記憶が改善したかどうかはわかりません。
そのため、更にSPARCの過剰発現により海馬から前頭前野に向かっている(投射)神経細胞だけの興奮性活動を抑制し、記憶改善作用が消失するかどうかを検証しました。その結果、過剰発現によって一旦もたらされた記憶改善作用が消失することが検証されました。
これら一連の検証により
ジオスゲニン投与 ➡ SPARC増加 ➡ 軸索伸展 ➡ 記憶改善
が証明されたことになります。
3-2.Ⅰ型コラーゲンとSPARCの相互作用の機能発見
軸索が再伸長する際には、ジオスゲニンによる軸索内のSPARCの増加と細胞外のⅠ型コラーゲン(※4)が、軸索に沿うように並ぶことを発見しました。両者の相互作用によって、不規則に伸びていくのではなく、元々伸びていた方向に再び軸索を伸長させていくことを発見しました。
(※2) 前頭前野・海馬:脳は大脳、小脳、脳幹の3つに分かれ、前頭葉の大部分が前頭前野。記憶、考える、感情コントロール、判断など行う。海馬は、数秒から1分程度の短い記憶でファイルを整理整頓し、長期記憶は、大脳皮質にファイルされる。
(※3) SPARC:様々な組織に存在し、細胞の増殖や分化、移動などを促進する多機能性を有する糖タンパク。中枢神経系での発言は、発達期でピークとなり、成熟に伴い減少する。脳損傷後の修復期に発現が増加することが知られている。
(※4) Ⅰ型コラーゲン:約30種類のコラーゲンが発見されているが、Ⅰ型コラーゲンは、脊椎動物で最も豊富に存在し、ほとんどすべての結合組織に存在する繊維形成性のタイプである。脳内にも存在する。
4.まとめ 新たな治療戦略への糸口
アルツハイマー病モデルマウスの脳の中では、軸索が縮み(=神経線維の変性)記憶に係わる機能が働かない状態になっています。現状の3つの仮説では、委縮してしまった神経細胞を元に戻すはたらきはありません。
ところが東田先生の研究論文では、ジオスゲニンを投与することにより、縮んだ軸索を元の場所まで伸ばし、記憶が改善することを確認しました。
一度変性した神経細胞は回復することがなく治療不可能という定説に、一石を投じる見解を示しています。
マウスを使った研究とはいえ、変性した神経細胞がジオスゲニンによって再活性されるということであれば、毎年数千億円ともいわれる膨大な資金を使って行われている認知症治療薬の開発において、大きな光明となるのではないでしょうか。根本治療薬の新しいコンセプトを持った研究が行われるきっかけになれば、世界中の叡知により、根本治療薬の研究が大きく前進するものと期待しています。
(naka)
論文名: Diosgenin restores memory function via SPARC-driven axonal growth from the hippocampus to the PFC in Alzheimer’s disease model mice. (ジオスゲニンはアルツハイマー病モデルマウスにおいて、SPARCが駆動する海馬から前頭前野への軸索投射によって記憶機能を回復させる)
著者: Ximeng Yang, Chihiro Tohda (楊 熙蒙、東田 千尋) 所属:富山大学 和漢医薬学総合研究所 神経機能学領域
掲載誌: Molecular Psychiatry
2023年4月22日オンライン公開「Molecular Psychiatry」オンライン掲載ページ Diosgenin restores memory function via SPARC-driven axonal growth from the hippocampus to the PFC in Alzheimer’s disease model mice | Molecular Psychiatry (nature.com)
用語説明
(※1) ジオスゲニン:生薬のサンヤク(ヤマノイモやナガイモの成分として知られる化合物ではあるが、ジオスゲニンとしては、ほとんど存在せず、配糖体のジオシンとして存在。従い、ヤマノイモなどを食べてもジオスゲニンはほとんど摂取できない。
(※2) SPARC:様々な組織に存在し、細胞の増殖や分化、移動などを促進する多機能性を有する糖タンパク。中枢神経系での発言は、発達期でピークとなり、成熟に伴い減少する。脳損傷後の修復期に発現が増加することが知られている。
(※3) Ⅰ型コラーゲン:約30種類のコラーゲンが発見されているが、Ⅰ型コラーゲンは、脊椎動物で最も豊富に存在し、ほとんどすべての結合組織に存在する繊維形成性のタイプである。脳内にも存在する
(※4) 前頭前野・海馬:脳は大脳、小脳、脳幹の3つに分かれ、前頭葉の大部分が前頭前野。記憶、考える、感情コントロール、判断など行う。海馬は、数秒から1分程度の短い記憶でファイルを整理整頓し、長期記憶は、大脳皮質にファイルされる。